2024年5月、山武市から委託を受け、山武市内全四中学校の新一年生向けふるさと学習(森林環境教育
)を日向の森にて行いました。

この学習の目的は「森林内での体験を通じて人々の生活と森林との関係、森林の多面的機能、整備と森林資源の循環利用の必要性等に対する理解を醸成し、子供たちの生きる力を育む」こと。日向の森で活動を初めて8年。やっとここで得た経験と学びをこの地域の次の世代に還せる貴重な機会を頂きました。
森と水 ——
…と言っても相手は中学1年生。
自分の事を思い返してもその頃は森や自然、環境に対する興味はほぼなく意識とエネルギーのベクトルは全然違う方向に向いていた。勿論時代も違えば個人差もある。予想に反してどちらに振れることもあるだろうことは承知の上で、彼らにこの森とどう出会ってもらえるのか、何が響き残るのかを私たちなりに考え、今回は「森と水」というテーマに絞って全体のプログラムを構成しました
このテーマに至った理由は、以前国立環境研究所の気候変動適応センター副センター長の西廣さんが森にいらっしゃった際に谷津から染み出してくる水を見ながらしてくださった、「この位の標高の山だと台地に降った雨は大体12年かけてこの山すそに染み出してくる」というお話。
12年と言うと今回対象である中学1年生が生まれたころに降った雨が今まさに染み出してきているということ。
この水の存在を、森のスケール感や巡りを、自分たちの成長と重ねるように体感してもらいたかった。
山武林業と空師の関係 ——
それぞれ一クラス二時間ほど。まずは私たちの森での活動、それに至った経緯を簡単にお話しした後、代表のWO-unが生業とする「空師」と言うお仕事のデモンストレーション。かつて一般的な林業とは一線を画した森林経営と手法で、優良な木材を生み出し全国的にその名を知らしめた山武林業と空師との密接な関係へと話を繋げ、林業や森のあり方が水の巡りにどう影響するかという視点と共に森に踏み入れます。

始めて目にする空師の仕事にくぎ付けになる子供たち
雨は森をどう巡るのか ——
森に降る雨が木や草というクッションを介して柔らかな雫となって土に染み込むのと、木々や草が一掃された裸地を直接大粒の雨がたたくことで生じる違い。
土中に染み込んだ雨が谷筋を地下水となって降りていく過程で、草や木々たちが光合成や蒸散を通してその水量や水質にどう干渉しているのか。
そしてその水量と水質が、田畑や、河川、そして海へと至る過程で生態系や防災という観点からも環境にどう影響するのかなど、実際に台地から谷筋を辿り湧水のある山すそまで、雨の道のり、水と森との関係性を紐解きながら歩いていきました。


そして山すそでは、ゆっくりと染みだす湧水に(12年前に降った雨だという事も伝えた上で)一人一人触れてもらいました。「同い年だ!」「久しぶりー」「冷たい!」「飲めるかな?」 今この子たちの中で思考や感性はどう揺れ動いているのか…
自分たちの話やここから染み出る水の冷たさ、この森の色や光や匂いがどう伝わり、どう刺激し、もしくはしないのか。話をしながら、表情やリアクションを観察しながらひたすらそれを想像する…
まなび、そしてあそぶ ——
そして後半は林業や空師の技術や道具を応用した森の遊びでわいわい盛り上がりました。
空師の仕事で木を登るときや林地から丸太を引き出す際に使う動滑車の仕組みを使って先生を持ち上げたり、多勢と無勢の力関係が逆転する綱引きをしたり。2000年以上前に発案され、現代社会でも至る所で私たちの生活を支える人間の叡智を「遊び」を通して体感しました。

動滑車の仕組みを取り入れた綱引き。
左(大人10人)の力が2倍になって右(中学生30人)に伝わるのでほぼ力が釣り合う。
わたしと、世界と、出会いなおす。対話の時間 ——
最後は一日の振り返りをしながら、対話の時間も
虫が苦手な子が多く、座っていたシートの上に上がってくるアリやクモを追い払うのに必死で終始じっとしてられない子もちらほら。でも何で虫が苦手なんだろう?形?色?
「予測不可能な動き」「刺すと痛いかもしれない」
「いや全然かわいいし、むしろ人間の方が虫にとっては恐怖」などなど。
やはり「知らない・分からない」という事がこの恐れの根本にはありそうで…
とあるクラスは更にその先の、虫を怖がる「わたし」という存在へと問いは移っていきました。
私を「わたし」と認識するのは脳だから頭が私だ、と言う子。いやその脳を動かしているのは心臓だ。
でもその心臓に酸素を送っているのは肺だ。その酸素を作っているのは誰?植物!
その植物が吸う二酸化炭素を作っているのは…「あーぐるぐる回っていくーーー」 笑
漠然と持っていた恐れという感覚やわたしという概念をもう一度掘り下げ、対話を通して様々な角度から光をあてたりもみほぐしたりすることでもう一度森と、私と、他者と、世界と出会いなおしていく…
体験の時間、対話の時間。
明確な答えや終わりが無く、違いが際立ち、コントロールも効きづらい不明瞭な時間。その抽象度の高さや扱いづらさゆえに敬遠されがちで一見無駄にも思えるそんな時間こそが凝り固まった思考や関係性をほぐす潤滑油になり得るのだという実感。そしてそれは明確な線引きや、一般的な常識で区切られた場ではなく、どんなあり方も行いも問いも、そのまま受け入れてくれる森や自然と言う器の中でこそ得られる体験であり感覚なのだという事改めて強く感じました。
思考を止めず、問い続けること ——
そして最後は「今日私たちが皆さんにお伝えしたことは間違っているかもしれない」と言う話で締めさせてもらいました。ずっと下を向いてた子もその時ばかりは顔を上げて「え?」という困惑の顔を見せる。
でもそれが私たちの本音。私たちが森との出会いなおしの中で得て来た学びが、森や世界の解像度を上げてくれたのは間違いないとしても、その先で見えてきたのは答えではなく終わりのない問いの連なり。私たちの社会や教育のベースとなっている知識は一見確固たるものに見えるけれど、実は限られた条件や情報の中で得られた、あくまで現段階での最適解と言えるものでしかなかったり。今はまだ見えていない世界の新たなレイヤーや証拠が発見されるたび事実や常識は常に塗り替えられていく。そしてそれに連動するように正しさもひっくり返る。
大人は確固たる信念と知識を持って動いているように見えるかもしれないが実はそうではない。
大人も迷っているし、間違える。だから過信せず、答えを決めずに、森で私たちがしていること、社会で大人がしていること、そしてその結果をしっかりと見ていてほしい…

全て終わり嬉しい事に「楽しかったぁー」と言いながら帰っていく生徒もちらほら。
彼らが内に秘めたまだ柔らかな土壌を固めることなく、どれだけの種を蒔けたのかは分かりませんが、
今までとは違う森の顔と出会えてもらえたなら嬉しいし、この日の体験が今すぐではなくても5年後、10年後何かの拍子に芽が出て彼らの成長や学びのきっかけや後押しになってくれたらと願います。
そして今回こうして機会を頂き、実際に地域の次世代に向けてこのふるさと学習、環境教育を行ってみて、これが森の活動を社会へ還元する一つの形として、私たちができること、そしてやっていきたいことというのを強く感じました。水に限らず、炭素や窒素などの物質循環や、私たちの命の源となる「土」の正体、森に生きる多種多様なものたちの不思議と驚きに満ちたその生態と役割など様々な切り口から、世界の見え方、そして世界とのかかわり方が変わるような学びをこの森と共にこれからも届けていけたらと思います。
ki